京都 醍醐寺の 桜と 太閤さんが築いた御土居(おどい)



霊宝館のしだれ桜

  霊宝館のしだれ桜




京都 醍醐寺の 桜

「花の醍醐」といわれるように,醍醐寺は桜の花で有名です。これは、太閤豊臣秀吉が贅を尽くした「醍醐の花見」を,ここ醍醐寺で行なったことによります。


春の彼岸に憲深林苑で咲き始める、かわづ桜をかわきりに、しだれ、ソメイヨシノ、山桜、八重ザクラ、そして、三宝院の大紅しだれと金堂わきに大山桜が咲き終わるまで約3週間、醍醐寺では様々な桜が咲き誇ります。





参道 桜のトンネル
参道 桜のトンネル



樹齢100年を越えるソメイヨシノ
樹齢100年を越えるソメイヨシノ








京都の歴史・文化を学ぶ
(平安時代、鎌倉時代~室町時代を経て、安土桃山~江戸時代)


京都を狙う戦国大名

室町幕府の勢いが弱まるとともに、日本は永い戦国の乱世へと入っていきます。甲斐を本拠とした東国の雄であった武田信玄が、その妻だけはわざわざ京都の貴族の家から迎え入れていることなどは、このことを最もよく現しています。天下統一を狙った織田信長がまず何よりも京都を目指したのは、京都を支配することが天下を支配することにつながっていたからです。




秀吉による都市改造

本能寺の変によって信長は思いがけない死を遂げ、天下統一の事業は豊臣秀吉へと受け継がれました。秀吉は武家としては初めての関白に就任し、京都の天皇の権威を背景として天下統一へと突き進んだのです。秀吉は大坂(現在の大阪)に巨大な城を築くとともに、京都を自らの政権の首都として大々的に改造していきます。京都の中央には関白の城としての「※聚楽第」が築かれました。また、秀吉は京都の南の郊外に伏見城を営み、そこを晩年の根拠地としていきます。秀吉のこの事業によって京都は面目をまったく一新し、近世から近代に続く都市構造を造り上げていくのです。

「※聚楽第(じゅらくだい・じゅらくてい)」
(現在の二条城の北にあった、豊臣秀吉の城)   
出典:きょうと修学旅行ナビ   




聚楽第の主要エリア
~アクセス~

鉄道利用

JR京都駅からバス「堀川中立売(ほりかわなかだちうり)」降車、西へ徒歩散策。主な聚楽第の主要エリアのみなら所要時間は、石碑を繋いで徒歩1時間といったところ(詳しくはGoogleマップ参照)。




太閤さんが築いた御土居(おどい)って何?

街全体が歴史遺産のような京都。豊臣秀吉が造らせた「御土居(おどい)」は京都を囲む土塁で、外敵の襲来に備え、川の氾濫から守ろうと1591(天正19)年、市街地を囲むように築かれました。堀を巡らせ、その内側に掘った土を盛り上げて台形状の土塁とし、総延長は約22・5キロ。土塁の底部は幅約9〜30メートル、頂上部は幅約5メートル、高さ約3〜5メートルと推定される、いわば巨大な壁が京都の中心部を囲いました。



御土居を境に内を「洛中」、外を「洛外」と呼ばれるようになりました。ただし、御土居の内部であっても鞍馬口通以北は洛外と呼ばれることもあったといわれています。



秀吉が没して間もなく政権が徳川に移ると、御土居の外の鴨川河川敷に高瀬川が開削されてその畔には商家が立ち並んだから「洛中」は実質的に鴨川河畔まで広がったし、西部では洛外に通じる出入り口が新たに20か所以上設けられて、洛中と洛外の農村の結びつきが強まり「町続き町」が形成されたから、ここでも実質的な「洛中」の拡大が見られ、都の人々は決して「結わるる」ことはなかったと言われます。




京の七口

「京の七口」という表現があり、周辺地域からの街道と京都の出入口の総称であり、御土居築造時に開けられた出入口にはじまるとよく言われています。

長坂口:周山を経て若狭へ
鞍馬口:〔鞍馬街道〕鞍馬へ
大原口:大原を経て若狭へ
荒神口:〔山中越〕近江へ
三条口(粟田口):〔東海道・中山道〕山科・大津を経て江戸へ
五条口(伏見口):〔伏見街道〕伏見を経て奈良や大阪へ
竹田口:〔竹田街道〕伏見を経て奈良や大阪へ
東寺口(鳥羽口):〔鳥羽街道〕淀を経て大阪へ、〔西国街道〕山崎を経て西国へ
丹波口:〔山陰街道〕亀岡を経て丹波へ



最後まで読んでくださってありがとうございました。





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